昨日の続きです
実家のその後の事連日必死に片付けましたが、完全にはとても無理でした。
滞在中、叔母ともこれからのことについて話をしました。
叔母は父のただ一人の妹です。
父は15歳の時に父親を亡くし、母と妹を養うために必死に働いて苦労をしてきました。
叔母も 東京に出て必死に働きました。
体が弱かったために結婚はしないで、ずっと一人で頑張ってきました。
そして定年になり、先にふるさと愛媛にもどって家を建てた父と母のもとへ帰って行きました。
叔母は足が痛かったりして、便のいいところで借家住まいをしていました。
自分自身も体が弱いのに、どんな時も力になってくれました。
私達も 実の子どものように可愛がってくれました。
母がいなくなって空家になってしまう家
空家にすれば、家はだめになってしまいます。
足のこともあり、高台にあるこの家は叔母にとって暮らすのは大変ですが、父が建てた家をしばらく守っていきたいというのと、眺めもいいこの家で しばらくゆっくり暮らしたいという気持ちもあって、ここへ引っ越して数年間暮らすことになりました。
ほんとうは、ずっと勤めて暮らしていた埼玉に行き もう一度暮らしたいようですが (田舎は病院も買い物も不便で 娯楽もないため)、年金だけでは厳しいこともあり、ここで生活しながら今後の事を考えるようです。
母がこちらに来てから、叔母が ゆっくりと残りの家財を業者さんにお願いして片付けてくれました。
そして自分の引越し
仏壇も お墓も しばらは叔母が管理してくれています。
実家のあるところも 若い人が出て行き高齢化が進んでこの先も不安です。
あちこちで空き家が目立ちます。
叔母ももう80歳 いつか時期がきたら、借家でも私の家でも 呼んで面倒を見たいと思っています。
その時には、埼玉の兄が家のいろいろなことを引き継ぐことになると思います。
どうなるかは 今はまだわかりませんが。
実家を新築した時のこと 父が記念に石に彫ったものを見て、なんともいえない気持ちでここを去りました。

建て始めた時
両親は みかん畑の一画に、夢だった家を新築しました。
私は長女を出産するために、予定日の2カ月前くらいに実家に帰りました。
その時は、新築中で 荷物に囲まれた借家で生活をしました。
実家から持ってきたアルバムに懐かしい写真がありました。

たくさんの人が手伝いに来ていました。

女性は 食べることなど、皆が手伝ってくれました。

だいぶできあがって

そして夕方 上棟式では町中からたくさんの人たちが集まって来ました。

上棟式の大イベント

お餅や お菓子 雑貨 …楽しいことが好きな父は 奮発していろいろなものを用意しました。

みんな袋を持って必死ですね
父も母も笑顔で嬉しそうです。

必死に拾う町人


多くの人の協力や、こうしてお祝いに集まってくれる人たちのおかげで、盛大に上棟式を行うことができました。
今は高齢化も進み、だんだんとやらなくなってきたようです。
そして今度は協力してくださった方や親せきを呼んで盛大に
船盛りもあり、準備OK

出産を控えて私も参加
残念ながら ここにいた多くの方が亡くなられてしまいました。

完成した新しい家で、無事出産をし長女を連れて帰りました。
なので、長女と実家は同年齢です。

その後 二階を増築しました。

写真を見て、改めて 希望いっぱい嬉しさいっぱい 元気だった頃の両親の事を思い出しました。
こんな思いで建てた家を置き去りにして、父には申し訳ない感じです。
私の周りでも、実家が空き家になってしまって あとのことが大変だと言われる方がたくさんいます。
何代も受け継がれていくということがなくなった今 こうした問題も多いですね。
荷物ですが、整理しながら 母が 「これはいいものだから、持って行きなさい、これもいるあれもいる」 と言うので、少し持ってきましたが、今は 物のことなんかすっかり忘れています。
なければないで とくに困ることもなく、あっても必要としない
それだけ すっかりここの生活に慣れてきたということですね。
妹弟達や親せきに囲まれた ふるさとを離れ寂しいと思いましたが、今はすっかり母娘の生活になっています。
空気も澄んで、鳥の声など聞こえてきそう。
夜も星がきれいなんだろうな~なんて想像してしまいました。
上棟式、懐かしな~。我が家もやりました。
今はやりませんね、時代・・・でしょうか。寂しいです。